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水谷晃さん/PER-HAPS代表

オープンして数ヶ月後に、1号店は口コミによる集客が予想外にアップ。そして、四日市にフランチャイズをオープンするも、体調を壊して閉店。桑名に戻り、現在のPER-HAPSを新たにオープンした。しかし、自己中心的な振る舞いからか、2ヶ月後にスタッフ全員が退職する危機に直面。そこで、人の大切さを痛感した。

ライター 前田正明 | カメラ 好川桃子 | 配信日 2007.12.6

サスーンカットで売り出した1号店は口コミで大人気に

1号店のJAPは20坪のサロンで、今でも残しているイーゼルの形をしたセット面が6台、シャンプーが2台でした。スタッフを3人雇って、私と嫁を合わせて合計5人でスタート。初めてお店を持った時は、本当に嬉しかったですよ。でも、ロケーションは最悪な環境でした。こんな場所にお客様が来られるのかというような雰囲気でしたからね(笑)。ところが、オープンして3ヶ月後に大変なことになったんです。なぜかお客様が大勢来られるようになり、予約制にしないとやっていけないと嫁が言いだしたんです。それくらい増えました。そこで、新たな問題が発生しました。それは、こんなに流行るとは思っていなかったので、駐車場を確保していなかったんですね。その結果、ご近所さんの前や路上に駐車されるようになり、スタッフ全員で対処しました。当時はPRをしなかったのですが、サスーンカットで売り出したせいか、ほとんど口コミで来られましたね。

新店舗をオープンした直後にスタッフ全員が退職

それから、mod's hairが四日市にフランチャイズを募集しているとのことで、出店を決意しました。多分、名前の知られていないJAPよりはmod's hairの方が集客が図れるだろうと思ったからです。そこで、嫁は桑名に残り、私が四日市へ。その時に、2人目の子供が生まれました。しかし、四日市のmod's hairは、その後3年で閉店しました。その理由は、忙しすぎて私が体調を壊したため、続けることができなくなったからです。それから桑名に戻ったんですが、男として嫁のサロンに戻る辛さといえばなかったですね。そこで、自分の居場所を確保するために、現在のPER-HAPSをこの3階にオープンしました。ここが、PER-HAPSの1号店になります。オープンしたのが7月。ところが、9月にPEEK-A-BOOの月例会から帰ってきたら、スタッフ全員が退職してしまったんです。多分、私のやり方が気にくわなかったんでしょうね。それは、すごいショックでした。

スタッフが辞めて初めて知った『人財』の大切さ

それから数日後に何人か戻ってきましたが、私は受け入れませんでした。そんな風習はよくないと思ったからです。そこで、JAPを閉めて、私と嫁と親戚の息子の3人でこの店を守っていきました。それは、スタッフたちが辞めた翌日からのリスタートでした。今思えば、他店でスタッフを指導したり教育した経験もなく、自分のことばかり考えていましたから、私自身が未熟だったんですね。だから、彼らには悪いことをしたと思っています。彼らの不満を分かってあげる余裕がなかったことに反省しました。でも、そんな辛い経験があったからこそ、今のPER-HAPSが存在していると思っています。そこで私は、人の大切さを痛感しましたから。しかし今思えば、そんな挫折を味わうことも、人間として生きていく上で必要なことだと感じています。そんな経験を乗り越えていくことで、人間は成長していくのだと思います。それに、彼らの中には、今でも付き合いをしている人がいますから、彼らを恨むこともないです。逆に、彼らが私に教えてくれたと思っています。

三重県出身。三重高等理容美容専門学校(現ミエ・ヘアー・アーティストアカデミー)卒業後、名古屋市内のサロンを数店舗経て、母親のサロンである理容店を手伝う。その後、1980年に28歳で独立し美容室としてJAPを三重県桑名市にオープン。その後、1987年にPER-HAPSをオープンし、1999年にmod's hair 桑名店、2001年にmod's hair 名古屋栄店、2004年にPER-HAPS SUPER POSITION、2006年にPER-HAPS PARK AVENUE、2006年にmod's hair 桑名店を改装し、キャンディーグラマシーをオープンするなど、『上質で上品』をコンセプトに現在は5店舗を展開。現在、サロンワークのみならず、テレビや雑誌の取材、カットスクールや大学の講師を務めるなど、その活躍は多岐にわたる。

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