濱田有美子さん/銀座マツナガ 成田店 | ||
若干22才の若さで銀座マツナガのグループ内コンテストに優勝しドイツ研修旅行を獲得。ところが、帰国直前にドイツのサロンでの勤務を余儀なくされ、異国で想定外の2か月間を過ごすことに。ただ、そこでの経験で職人に対する尊敬の念と日本の理容技術の高さを実感する。帰国後は24才で店長を任され5年の修行を経て実家へ戻る。
ライター 前田正明 | カメラ 藤村 徹 | 配信日 2015.2.5
サロンワークやコンテストで奮闘した女性店長時代
山口県での修業時代で最も印象に残っているのは店長を任された最初の頃です。 それまでいた男性の先輩がサロンを退職してその方のお得意様を私が担当することになったんですが、新しい担当者でしかも女性ということもあり、お客様の中には不満を抱かれる方がいました。カットだけでなくアイロンパーマなどでもかなり気を使ったことを覚えています。 当時は刈り上げなどのメニューばかりでしたが、それだけで修業時代を終えるのはもったいないと思い、流行のメンズスタイルも練習をし、その部門でもコンクールに出場するようになりました。すると若い男性客も徐々に来店いただけるようになり、忙しくさせていただきました。 ただ、自分自身のことで精一杯だったのであまり後輩の面倒を見ることはなく、また経営面は先生が管理していたので、店長と言っても私は毎日のサロンワークに精を出していましたね。 自分が新人の頃は先輩にかなり良くしてもらいましたが、私は面倒見の悪い先輩だったと今になって反省しています。
副賞のドイツ旅行から一転して異国でのサロンワークに
実は、店長に就任する以前の22才の時にドイツのハンブルグのサロンでのお手伝いをしていた経験があるんです。 これは、実家である銀座マツナガのグループ内コンテストに急遽出場し、そこで優勝したことがきっかけでした。 コンテストで優勝した私は副賞でドイツ一週間研修旅行に行ったんですが、帰国する前に銀座マツナガグループのドイツ店に挨拶にうかがいました。 すると、スタッフの手が足りないから2ヶ月だけ手伝ってくれと頼まれて、急遽ハンブルグで勤務することになりました。すでに、サロンと山口の先生との間で話が進んでいて、帰国の航空チケットもキャンセルされていたんです(笑)。 ただ、私は観光ビザだったので給料をもらうことは出来ず、チップでの生活を余儀なくされました。食生活はポテトとソーセージ、水は高いから毎日ビールを飲んでいました(笑)。住居は辞めたスタッフのアパートが空いていたのでそこで生活しました。 お客様の半数はアジア人で会話はドイツ語ではなく英語だったのでそれ程苦労はなかったです。自分の全く知らない世界で話が進んでいたことに躊躇しましたが、これも海外での出来事だからと受け入れてサロンワークをしていました(笑)。 従業員はマツナガグループの日本人スタッフだったのでそれも安心してお手伝いをできた理由ですね。
帰国後に東西の違いでニーズが異なることに戸惑う
ドイツで感じたのは日本人の職人さんがすごく地位が高く優遇されていることでした。 例えば、お見送りの際にドアを開けただけで「職人がドアを開けるなんて日本人はなんて素晴らしいんだ」と感激されます。接客面でも日本人の技術やサービスの高さに満足されて通常の料金より多くお支払いいただき、さらにそれ以上のチップをいただくこともありました。 その時、日本ではもっと気を使って接客をしているのに、理容師の地位はまだまだ低いことにカルチャーショックを受け、どうにか同じくらいの地位を確立したいと強く思いました。 そのお店は技術も接客もドイツで評判だったので、ドイツ中からお客様が来られました。様々な方の接客をすることで、一気に視野が拡がりました。 そんなドイツでの修行を経て帰国し、山口県での修業を終えて実家の銀座マツナガ 成田店に戻りました。最初はお客様の好みや文化の違いで求めるスタイルが微妙に異なるところに戸惑いました。カットのニュアンスに東日本と西日本で差があるんです。 また当店は、成田空港に近いホテル内のサロンとしてオープンしたので当初から店内にクラシック音楽が流れていたり、音や香りに気を遣うなどおもてなしを重視しており、そんな雰囲気にも違いがありました。
有限会社銀座マツナガ取締役、銀座マツナガ成田店 店長。新潟県出身。東洋理容美容専門学校卒業。 卒業後に山口県防府市のヘアサロンに入社。その後、国際九州理美容選手権に出場し第5部で総合優勝し、銀座マツナガ ドイツハンブルグ店に勤務。 2000年に実家である銀座マツナガ成田店に入社。2004年に有限会社銀座マツナガ取締役に就任。2012年に東洋理容美容専門学校の講師に就任。 現在、サロンワークを中心に全国の理美容師に向けたリンパセラピーの講習も展開中。