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相澤須美子さん/藍美容室

「将来は社会に貢献できる人材になりなさい」。そんな、尊敬する人からのアドバイスで美容師になることを決意。一流の美容師になって大勢の人々を美しくしたい。そんな夢を抱いて憧れの東京へ。しかし、現実とのギャップで挫折感を味わう。そんな姿を案じてか、母の助言で郷里に戻り石巻のサロンに勤める。

ライター 前田正明 | カメラ 土肥裕司 | 配信日 2013.6.6

社会に貢献できる職業として美容師になる道を選んだ

高校2年生の夏休みの時です。自分の将来について悩んでいたところ、私が尊敬するある方から「将来は社会に貢献できる人材になりなさい」とアドバイスを受けました。その時、自分は何に適しているかを考え、小さい頃からおしゃれやヘアスタイルに興味を持っていたこともあり、美容師になろうと決意しました。一流の美容師になって、大勢の人々を美しくすることができたらどんなに素晴らしいだろうと。それから、卒業後は地元の美容学校に入学し、知人の紹介で東京のサロンでインターン時代を過ごしました。そのサロンでは約2年ほどお世話になりました。東京という憧れの地で、美容師として活躍することを夢見ていたのですが、現実は雑務ばかりでそのギャップに悩んでいました。当時は住み込みで、起床は午前6時の厳しい生活。このままでは、技術も満足にマスターできないと挫折感を抱き、実は3ヶ月で美容師を辞めようと石巻に帰ったんです。

全国大会で優勝した先生がいるからと母の勧めで地元へ

実家に戻った私を母は厳しく叱りつけました。「わずか3ヶ月で辞めるようでは、どんな職業に就いても同じこと。せめて国家試験に合格して美容師の資格を取ってからその先を考えなさい」と言われたんです。それから東京に戻ってそのサロンで一生懸命に勤めました。ただ、このままの状態では自分の技術は伸びないと思い、新しい勤め先として3つのサロンを自分で探しました。いずれも面接を受けて内定をいただいたんですが、上京した母が見学をしてどのサロンも私には適していないと言うんです。さらに、石巻に全日本美容技術選手権大会で優勝した腕のいい先生がいるからそのサロンに勤めなさいと。どうやら母が心配して、私を採用してくれるように話を取り付けていたようです。東京で腕を磨きたいという夢はありましたが、一人娘だったこともあり、石巻に戻ることにしました。

美容師として充実感を味わい始めたころ独立を勧められる

石巻に戻って新しく勤めたサロンが美容すがわらです。ここの渡部怜子先生は全日本大会だけでなく、宮城県美容技術選手権大会でも3年連続で優勝を収めるなど地元では大変有名な方でした。そんな先生と出会ったことで私は大きな影響を受けました。当時はブロー技術がまだない時代で、カーラーを巻いたセッティングでの仕上げが主流でした。ワインディングが得意だった私はすぐにパーマを担当し、セッティングも任されました。さらに、怜子先生からカット技術のレッスンを受けるなど、美容師としての基礎を学びました。まだ、技術者になったばかりなのにコンテストにも出場させていただき、いろんな技術をマスターすることができました。そんな美容師として充実感を味わい始めた頃、叔父から独立を勧められたんです。一人前になってからではなく、独立して腕を磨く方法もあるよと。まだ技術も経験も足りず、私は独立するつもりはなかったのですが、なぜか話が進んでいってしまったんです。

藍美容室代表。宮城県出身。宮城理容美容専門学校卒業。1968年に東京都のサユリ美容室に入社し、1972年に宮城県石巻市の美容すがわらに入社。1975年に独立し、石巻市に藍美容室をオープンする。1988年に自社ビルを建設し移転オープン。2011年の東日本大震災で大きな被害に遭うも、同年8月にはリニューアルオープンし、営業を再開する。宮城県美容技術選手権大会で10年連続で優勝を果たし、1983年の全日本美容技術選手権大会で総合4位に入賞するなど数々のコンテストで活躍。1985年にはフェスティバル・ド・パリ日本代表として世界大会にも出場する。現在はサロンワークに従事しながら、全日本美容講師会会員や日本ヘアカラー協会会員など業界内で活躍している。

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