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西海洋史さん/DADA CuBiC

帰国者ばかりが集まってオープンしたサロン。当然、最初はゼロからのスタートだった。しかし、その内容に興味を持たれ、雑誌の掲載から口コミで集客につながった。サロンワークでは、ロンドン時代の経験をいかして、当時では馴染みのないカラーリストという立場に。しかし、ヘアカラーの浸透とコギャルブームに後押しされ、カット&カラーのサロンとして『DADA』のネームバリューが高まった。

ライター 前田正明 | カメラ 更科智子 | 配信日 2007.2.1

顧客は外国人のみで日本人客ゼロからのスタート

共同経営に関しては、みんなの目的が同じだったので、考え方の違いでトラブルになったりしたことはなかったですね。ただ、みんな海外から帰って来たばかりだったので、お客様は私がやっていた外国人100人くらいだけ(笑)。後はゼロからのスタートでした。だから、集客は口コミを狙って、友だちに出版社の方を紹介してもらったり、リーフレットを作って送付したりして、雑誌で紹介してくれるチャンスをもらいました。ロンドンから帰国したばかりの人間が集まって、サロンをオープンさせたという内容がおもしろかったんでしょうね。でも、半年くらいは給料が出なかったですよ。だから、オープン当初はアシスタントが1人だけ。シャンプーやブローなど、すべて自分たちでやりました。ただ、ヤル気満々でしたからモチベーションは維持していました。今思えば、いい仲間に巡り会ったおかげですね。

カラーリングが浸透した時代背景にタイミングよくマッチした

私は帰国しても、当時の日本では馴染みのないカラーリストとしての仕事もしました。それは、ロンドンでカッターとカラーリストが両立しているのを体験しているので、サロンのシステムとしてシミュレーションができていたからです。ただ、一般的に仕事内容を認知してもらうのに苦労はしました。でも、ソフトパンクから『コギャル』にブームが移った時代だったので、カラーが徐々に浸透してきた時代背景とうまくタイミングがマッチしていたのはラッキーでしたね。だから、1年後にはカラーのお客様ばかりで、DADAはカット&カラーのサロンとして定着しました。そのおかげで、『ゼロからのスタートなのに、どのようにしてカラーを確立したんですか?』って、よく聞かれましたよ。2年後には予約がいっぱいになって、3年後にもう移転。その当時の苦労としては、まだ日本にほしいカラー剤がなかったということですかね。それと、ロンドンテイストでカッコいいスタイルを提案したことで、リピートが少なかったこと。今思えば、日本流にかわいい美容をやるべきでしたね。

時代やニーズの変化に合わせて美容師も変わるべき

経営者的な立場からみると、オープンして以来10年間、一度も売上げが落ちてないんですよ。だから順調に歩んできた分、経営者らしいことをほとんどやってないのが事実なんです(笑)。でも、伸びている間は経営らしい経営をする必要はないと思います。ただ、将来を見据えてお金をいかに残すかということに苦労はしました。お金がない時は必死で仕事をするだけでよかったんですが…。だから、今をどうするかよりこれから先の計画を考える必要があると思います。それが大変ですね。今後は、今やっていることを少しずつ変えて、攻めの姿勢で前進しないと平均値は確保できないと思います。特に、東京の原宿や青山界隈の激戦地区では…。例えば、メニューや商品の見直しだとか。それと、ニーズや時代性に合った提案も大切。10年前と今とでは、それが大きく変わっています。それに同調して、我々も変わらないと新しい提案ができないでしょうね。それができるかが、これからのサロンや経営者としての課題だと思います。

1991年渡英。ロンドンのサロンで経験を積み、同時に『DADA』としても始動。カラーリストへ転向。帰国後、1997年3月原宿に『DADA』をオープン。2000年表参道に『DADA CuBiC』をオープン。2004年に『DADA DESIGN ACADEMY』を開校。2006年4月に『D-CuBiC』『DADA CuBiC』を統合拡張移転。カラー剤開発にも携わる。

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