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川上健壱さん/AIR FLOW

新人時代はいつも失敗の連続。それを克服するために猛練習をやった。そして、人気サロンに入社し、今でも師と仰ぐ美容師と出会う。その後、さまざまな面で影響を受けるも契約切れで退職。ネガティブな気持ちを晴らし、さらに神戸の人気サロンに入社。そして、知人から共同経営の話を持ちかけられ、サロンをオープンさせた。

ライター 前田正明 | カメラ 好川桃子 | 配信日 2009.8.6

未熟なカットで少女を傷つけた新人時代のひどい失敗

美容師になってからの失敗は未だ鮮明に覚えています。私がスタイリストになったばかりの2年目に、小学5年生の女の子をロングからショートにカットした時のことです。可愛い子だったのに、カットし終わると毒キノコみたいな頭になったんです。それから翌日、街で見かけたので声をかけようとしたら、友達の女の子たちに囲まれ同情されて泣いているんです。本当に申し訳ないことをしたなと罪悪感を感じました。他にも、楽しかったことより失敗の方が覚えています。私は不器用なので、練習では他人が100回するところを3000回や5000回しました。コンテストに出場しても、周りの人はみんな上手そうに見えるんです。だから、練習はかなりやりましたし、そうしないと勝てなかったです。そのお陰で技術をマスターすることができ、コンテストでも優勝することができました。初めは苦痛でしたが、結果が伴ってくると自信になり嬉しくなりましたね。

ビュートリアム時代に美容人生における師匠と出会う

お笑いの道を断念し、2店舗目も退職した頃はしばらく放心状態でした。そこで、オーストラリアにワーキングホリデーに行くか、関西に初上陸したビュートリアムに応募するか、どちらかにしようと考えました。ところが、半ばあきらめていたビュートリアムの面接に受かりました。面接をしていただいたのは山本学さんで、今でも私の師匠です。山本さんには、技術的にも人間的にも大きな影響を受けました。今までの私の技術が中途半端だったことを悟らせてくれたのが山本さんなんです。自分ではまっすぐカットしているつもりでも、きちんと切れていないと指摘されました。ワインディングもカラーリングも同様でした。ブローなんか何万回やったか記憶にないくらいです。しかし、そんなビュートリアムも2年未満で契約切れで退職することになりました。それから次のサロンも3日で辞めて、ホントに気持ちもブルーになっていました。気分転換のため実家にしばらく帰ったりしました。 20代の頃は常に壁にぶち当たってもがき苦しんでいた時代でしたね。

共同経営という形で郊外の住宅街にサロンをオープン

関西に戻って、5店舗目は神戸のステラに勤めました。あの頃はビュートリアムを経験して以来、自分のレベルを高めるために有名サロンに入社したいという気持ちが強かったです。ステラでは約3年お世話になり退職しました。きっかけは、ビュートリアム時代の同期のスタッフが独立するので、共同経営をしないかと誘われたからです。場所は、大阪の箕面です。彼が豊中に住んでいて、ビュートリアムの商圏から離れた閑静な住宅街がいいというのが理由で私も承諾しました。それが、箕面を基盤にスタートしたきっかけです。サロン名はイン ザラフです。ところが、2年半くらいで相方が有名サロンの新店でオープニングスタッフとして勤めたいと言い出したんです。彼は、経営者より勤める方が自分に向いていると言うんです。私は、お客様の人数が少なくても今までお世話になった恩義があり、その責任からそのまま箕面に残ることを決心しました。そうしないと、後悔すると思ったからです。

エアフロー代表。島根県出身。ル・トーア東亜美容専門学校(通信科)卒業。大阪に上阪し、プラザヘア(奈良県)に勤務。その後、大阪市内でBFクラブ、ビュートリアム、神戸市内でステラを経て、1996年に大阪・箕面市でIN THE ROUGHを共同経営。その後、単独経営としてIN THE ROUGHを引き継ぎ、2000年11月にAIR FLOW RAKUENをオープン。'03年に有限会社コンピタンス設立。'06年にAIR FLOW WITH GARDEN、'08年にAIR FLOW ANOTHER LAGOONをオープン。現在、サロンワークを中心に撮影等でも活躍。また、サロン内で和太鼓チーム『山猿』、パフォーマンス集団『DMC』、クリエイティブチーム『PWR』などを展開し、地域密着型サロンとして地元に貢献している。

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