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小林純子さん/B.a.l.a.n.c.e

幼少の頃から、母親が美容師だったことで、他人には分からないイヤな思い出がたくさんあった。さらに、後を継いで美容師になるのだろうという周囲の決めつけに反発。ところが、人間味あふれる母親の接客に驚き、なぜそこまで打ち込めるのかと美容に興味を抱く。そして、母を超える美容師になろうと上京を決意した。

ライター 前田正明 | カメラ 更科智子 | 配信日 2009.2.5

母の後を継ぐんだろうという周囲の決めつけに反発

私は、今も現役で美容師をしている母から大きな影響を受けました。実は、小さい時は美容師になるのが嫌だったんです。理由は色々ですが、例えばパーマ液の臭いのついたおにぎり。当然、母は手をきれいに洗っていましたが、あの独特の臭いは完全に消すことができず気づかなかったんでしょうね。それと、土日に遊びに連れていってもらえず寂しい思いをしたのも理由の一つです。また、授業参観日の時には、まわりのお母さんたちと違って美容師という職業柄すごく目立っていたので、子供心に恥ずかしさを感じたこともありました。そして最も嫌だったのは、思春期になった頃に友人や親戚の人から、『どうせお母さんの後を継いで美容師になるんでしょ?』って決めつけられたことでした。私の人生を勝手に決めないでって感じで、常に母の影がちらついていたことに反発していました。でも、両親は後を継げとは言わなかったんです。ただ、こんなに子供がいやがっているのにどうして母は楽しそうに美容師をしているのか気になって、一日中仕事ぶりを見ていたこともありました。

大根3本の物々交換でパーマをかけた誇らしげな母

ある日の夕方のことでした。母の仕事が終わりそうで一緒に夕飯が食べられると楽しみにしていた時に、ふろしき包みを背負ったおばあさんが来店されたんです。私はガッカリして話を聞いていると、おばあさんはお嫁さんとケンカをしてお小遣いをもらってきていないとのこと。代わりに、大根3本でパーマをかけてほしいと言ったんです。すると母は、『こんなにおいしそうな大根、お店でも買えないわ』ってパーマを始めたんです。そこから3時間のパーマですよ(笑)。子供心に物々交換なんてあり得ないって思いながらも、私はずっと待ってました。そして仕事を終えた母が、いい仕事をしたと満足したように言ったんです。私は、そんな母の仕事ぶりに負けたと思いましたね。母をトリコにする美容という仕事って何だろうって、徐々に興味を抱き始めたんです。そして、私も母と同じように美容の道を歩む決心をしました。むしろ、やるからには母を超えてやろうと強い決意で望みました。それ以来、ロッドを使って密かにワインディングの練習もしていたので、美容学校に入学した頃は先生よりきれいに巻く自信がありました。

両親が呼び戻せないくらい有名な美容師になる

美容学校への入学は母親に反発していた手前、両親には内緒で親戚を頼って東京へ行き、5校くらい見学して自分で決めました。そして実家に帰って両親に話したんです。『お母さんの姿を見て、私も美容師になります。でも、家には残らず東京のサロンで働きます』と。さらに、『東京に行くからには、お父さんやお母さんが呼び戻せないくらい有名な美容師になるから』と決意の強さを話したんです。そして、やむなく了承してもらい上京しました。当時の美容学校は1年制でその後1年間のインターン制度がありました。私は以前から雑誌を見ていて気になった美容室があり、それが嶋ヨシノリ美容室(現、SHIMA)。SHIMAに入社してからは、目標を明確にすることでモチベーションを高めました。まず、同期や先輩、さらにはトップスタイリストから店長までを目標にして、厳しいチェックやテストも一番でパスしようと一生懸命にレッスンしました。終電も気にせず、深夜に歩いて帰ったことも多々ありました。ただ、まじめに頑張るだけでは務まらないのが美容の世界だと思うんです。遊びの中から学ぶこともたくさんありますから。そこで、お給料を有効に使うには、どうすればいいかを考えたんです。

B.a.l.a.n.c.e 代表。新潟県出身。東京綜合理容美容専門学校卒業。嶋ヨシノリ美容室(現、SHIMA)に入社。15年半の勤務で店長を務める。その後、独立のため同サロンを退社し、約1年間の充電期間を過ごす。1999年5月に結婚。同年8月、代官山に B.a.l.a.n.c.e(バランス)をオープン。現在、サロンワークを中心に雑誌や広告の撮影等でも活躍中。また、サロンのホームページにおいて自叙伝を執筆中。

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