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飯島秀昭さん/SOHO 蒼鳳代表

理髪店を営む職人気質の父の姿を見て育った。しかし、子供の頃の夢はサラリーマン。その後、試行錯誤で悩んだ末に目指したのは、当時としてはめずらしい男性美容師。そして、意を決して憧れの今井英夫氏の門を叩く。

ライター 前田正明 | カメラ 好川桃子 | 配信日 2007.9.6

子供の頃は普通の会社員になろうと決めていた

私は小さい頃から、理髪店を経営していた父の仕事ぶりを見て育ちました。父は典型的な昔気質の職人。いつお客様が来られてもすぐ立てるようにと、昼食を食べる時は『立て膝』で座っていました。それと、ミョウガやニンニクといった臭いのある食べ物は普段から口にしませんでした。そんな父の姿を見て、尊敬していた部分が多数ありました。だから、父に迷惑をかけるのが嫌で、学生時代からアルバイトをしました。今では想像できませんが、子供の頃は「大人になったら、絶対に普通の会社員になる」と本気で考えていました。でも、「一日中、デスクワークに耐えられるだろうか」と不安になり、職人の世界に興味を持ち始めたんです。そこで、憧れたのがコック。でも、東京のフランス料理店で見習いをしていた高校の先輩から、「毎日、タマネギの皮むきと掃除しかさせてもらえない」という話を聞き断念しました。ならば、どうするか。家業を継いだ兄の下で働くか外に修行に出るか。そう悩んだ末、当時はまだ男性が少なかった美容師になろうと考えたんです。

笑顔は作るものじゃなく心から沸き上がる自然な感情

だから、自分自身が「この職に就きたい」という強い意思ではなく、逃げ道を探して入り込んだその先が美容師だったというだけ。今でこそ、男性美容師は大勢いますが、埼玉の美容室で働いていた当時は、「美容室に男がいる」というだけで見物客が大勢来ましたね。美容学校に通っていた1年間は、その美容室で住み込みで修行しました。その頃は、毎朝5時に起きて掃除を済ませて登校。帰宅して午後3時から店に出ていました。サロンが定休日の火曜の午後のみがフリーで、後はほとんど年中無休でフル稼働。ちなみに、毎月の給料は5000円。住み込みとはいえ安い金額で遊びにも行けない厳しい環境でしたが、それでも辞めようとは思いませんでした。理由はごく簡単。それは、これが自分の選んだ道だからなんです。でも当時は赤面症で、なんとか笑顔で接客できないかと笑顔の練習もしました。そうするうちに、作ろうとするからダメなんだと気づき、美しい物やきれいな景色を思い浮かべると自然に笑顔が出来るようになりました。

今井さんに教わりたいという強い意思で念願がかなった

そんな努力が実って、国家試験には一発で合格しました。その時、「このまま田舎でくすぶっていても仕方がない」と思い、「男なら、東京へ行って勝負しよう」と決心しました。母には反対されましたが、ある人の紹介で東京の国分寺の美容室に勤めました。そして、1974年2月1日に、今井英夫さんの美容室に入社しました。実は、今井さんのことを初めて知ったのは、『百日草』という美容雑誌に掲載されていた、『帰ってきた三人』という記事です。そこに、海外で最新のカット技術を学んで帰国した美容師の一人として、今井さんが紹介されていました。私はその記事を見て「今井さんに学びたい」と思い、意を決して門を叩きました。でも、最初はなかなか取り合ってくれませんでした。私はあきらめずに、三日間も続けて今井さんの店に通いつめたんです。すると、三日目に今井さんが見かねた様子で、「分かったから、お前の住所と電話番号を書いておけ」と言われたんです。そして数日後に「2月1日から来いよ」って電話をいただいたんです…。

埼玉県出身。埼玉県理容美容専門学校卒業。1970年に美容師免許取得と同時に上京。都内のサロン数店舗を経て、原宿の今井英夫氏のサロンに入店。以後、サロンワークに従事する一方で、セミナーの講師として新カット技術の普及に努め人気を得る。いわゆる、『カリスマ美容師』の草分け的な存在。1979年にブラジル移住。1982年には美容室SOHO1号店をオープンし、ブラジル第2位の美容室チェーンに育て上げ現在に至る。近年は、『掃除』や『YOSAKOIソーラン・ブラジル』のイベント等により、ブラジルの人々に『日本人の心』を伝える活動を展開。稲盛和夫氏の経営に学ぶ『盛和塾』会員。『ブラジル掃除に学ぶ会』発起人会員。著書に『ぼくのブラジル武者修行』がある。

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